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9.恋に恋する万葉少女

私の作る歌はよく「恋愛の歌が多いね」と言われる。恋愛の歌が物語を基調とした自分の作風だと創りやすいのも理由の一つで、特に実体験でもなく、うっとりとストーリーを創って行くと、恋愛の歌になってしまう事が多いんだと思う。

ただ、私の場合、恋愛モノの歌を創る時に想定する場面が、日常的にありふれたものではなく、しかも生活感がない。

昔から、なんとなく生活感のある歌は作風に合わない様な気がしているのと、なんか自分の日常を歌うのは恥ずかしいので、創作ばかりしていた結果、物語を歌う様になったのだが、恋愛モノの発端となったものが何だったかを遡って思い出してみると、中学時代にハマった万葉集が関係していそうだったった。

「万葉ロマン♪万葉集の時代何故か昔から好きなんだ☆万葉時代の恋愛美しいですわ~♪額田王と石川郎女当たりが特に(*´∀`*)」

(2013年5月2日 )

大正ロマンならぬ万葉ロマンねぇ。実際にはどうだったのかはさて置いて、万葉集に見る恋愛歌のやり取りには、連絡手段、通信手段の発達によって、言葉は悪いが恋愛が比較的手軽になった現代には薄れてしまった「来るのか来ないのか、リアルタイムにわからない相手を待つドキドキ感」が一層リアルで鮮やかに感じ取れた。

それにも増して、言葉遣い、言い回しが粋だなあと感じるので、物凄くロマンチックな気持ちになっていた。

しかし読んでいた万葉集がこれが文字だけの文集だったらここまでにはならなかっただろう。

私が読んでいた万葉集は漫画だった。ここまで来てもう想像は付いた方がいるかもしれない。

私が特にうっとりした額田王と石川郎女の場面について言えば、

額田王は言うまでもなく女子から見ても女性として素敵な恋多き女として描かれ、

「自分もこんな恋愛してみたい」という憧れの気持ちを抱いた。

そして、石川郎女の章では、郎女の恋人だったという大津皇子がかなりイケメンに描かれていたのもあって、いわゆる二次元に恋する腐女子に近い状態もしくは、そこから二次創作をするオタクの様な気持ちになった。

(それでも二次元には行かなかったし腐女子にもオタクにもならなかった)

そんな事がきっかけで、この頃から作詞が始まったのだから万葉集が私に与えた影響は測り知れない。

その後古典文学好きはエスカレートして、百人一首は全て暗記する事となる。当然、平安時代の文学も沢山読んだ

「源氏物語とか和泉式部も憧れだけど♪」

( 2013年5月2日)

源氏物語も和泉式部も随分とスキャンダルな要素が強いし、どちらも色恋だらけ。という事は、自分自身も和泉式部の様に沢山の恋愛をする事に憧れた、つまり恋に恋する気持ちだったのかもしれない。

或いは、自分で言うのは恥ずかしいけど、わりかし恋愛経験が多めなのを和泉式部に投影してロマンチックに酔っているという節が無いわけでもなさそうだ。

だからこそロマンチックだけではなく振り回される思いもするのだけど。

「恋心ほどワガママなものはこの世にないと思う、駄々こねる子どもの方がまだ物わかりがいい。」

( 2013年7月16日 )

それでも、やはりロマンティスト。

「だからこそ美しいし愛しくもあるのですけど…☆」

(2013年7月16日 )

近年のアイドルの「恋愛禁止」じゃないけど、私の様な芸事をする人に対しては、口に出さずとも「恋愛してないで芸事に全てをかけて欲しい」といった様な暗黙の、圧力というのは言い過ぎだけど期待があるように感じる場面が多い。

気持ちは良く理解できる。憧れの存在というのは、つまり夢。自分がその人の側に居られたらという夢をみているから、「憧れのあの子に恋人がいたらがっかりする」気持ちもそうだと思うし、ある種、修行僧や修道女に似た性質のある職業なので言わんとしている事はよくわかる。その上で私はこう言いたいのだ。
「シンガーソングライターさんは多分、沢山恋した方がいい。そんな気がする。恋愛ほど感性を育てるものはないかもしれません。何故なら名だたる文豪や歌人は倫理道徳を知った上でそうでしたから。」「6:47 – 2015年11月25日)

ただし自分の芸時を邪魔しない人がいいね。出来る事なら。仮にダメ男ダメ女と付き合ってもそれを芸術に昇華出来れば良いけど。

そんな事をしょっちゅう考えているものだから、それが作品になってしまうのは自然な流れだったりする。

「19才のキャバ嬢「花売り娘」が進化して、悪い女「椿姫」になってしまうお話が今書けたです。彼女は生涯「女」である事を選んだんですねぇ。そして彼女は、とある流浪の辻楽師と恋に堕ちるが、彼に「君はあの名高き悪女だね」と云われ、妖艶な髪を切り落として普通の娘に戻ってしまうというお話。」

( 2015年11月25日)

ううん、このお話を書いたのはどう言う心理でだったんだろう。花売り娘はわりと初々しい純情な若いキャバ嬢と言う設定なのが、どこで何を間違えて悪女、椿姫になってしまったのかが気になる。

キャバクラの世界でちやほやされる事を覚えたのが発端なのかなんなのか。いずれにしても、キャバ嬢が彼女の天職だったのは言うまでもない様な気がする。

辻楽師。ちょうどこの頃、中世ヨーロッパの職業図鑑と言うものを読んでいて、辻楽師と言うのはいわゆるストリートライブをする音楽家の様な感じで紹介されていた。

原作の「椿姫」でも、椿姫と呼ばれていた主人公のヴィオレッタが、アルフレードという若者と出逢い、初めて純粋な愛を知った事で、娼婦生活から足を洗おうとする場面がある。多分この場面を憶えていたかなんかで、こんな話を書きたくなったんじゃないかと思う。

それが、頭の片隅に住み着いた「辻楽師」とコラボしていい感じになった。よし、次の作品は「椿姫」だ。

さて、では実際のクリエイター女子たちの恋バナ事情はどんなものなのか。
「女子会☆恋バナではなく作詞の話に花が咲いております^ ^作業場所は家派とカフェ派と半々の様。恋しないと恋愛の歌が書けない子、逆な子、さまざまです。女子力と創造力と両方とも向上中。」(2016年1月10)

そうは言っても恋バナだってあった。恋愛が自分の創作に与える影響がどんなものだとか、実体験としての恋愛から生まれた作品がどんなものだとか、創作的観点から付き合っていい男、ダメな男の考察とか。一般的な恋バナとちょっと違ってるだけ。クリエイター女子はむしろ付き合ったら面白いと思う。ただしステレオタイプではないし、亭主関白は嫌いな傾向があるが。

クリエイター女子的恋バナの一つの例としてこんなツイートをを紹介しよう。

「両想いだからこそ言えなかったって気持ち。それって10代の私の初恋のお話。言えないけど幸せだった、そんなお話。18の時にそれを元に作った曲があった。それをさらに今、物語にして4月あたりに歌おうかと言う。両想い=付き合うじゃないの?何で?いやいや、そうじゃないこともあるんでしたよ。」
( 2016年1月14日)

その作品はというと、2018年9月現在、実はまだ未完成だったりする。

(特に議論をする気はない。別に意見を求めてるんじゃない。ただ、あの日あの時の自分が酔った勢いで垂れ流した内容にツッコんでるだけのエッセイなのです。)

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8.シラフでも謎行動

私の謎な行動はなにも、酔っ払った時ばかりではないらしい。今度はシラフでやってしまったエピソードが満載のツイートを拾ってみる。

「ちょw下着売り場から出ようとしてカバンに違和感があったから確認したら商品の下着がカバンにぶら下がってたw危うく下着万引き犯になるとこだったぜ( ゚д゚ )」

(- 2013年4月13日 )

気がついたから良かったものの、そのまま気づかずに歩いていたらまるで万引きな上に変態になってしまうところだった。

次はやらかしというか、怪奇現象。

「昨日金縛りに遭って、今日耳鳴りがして、洗面所の鏡に映った背後になにかいるきがしたので 「そんなとこに居るとお祓いしちゃうぞ 」って云ったら耳鳴り共にぴたりと消えた…なんだったんだこれは(◎-◎;)」

( 2013年8月24日 )

何か憑けて来てしまったのかもしれない。ちなみに、私は霊感はあるが、目視で霊を見たことはなくて、聴こえたり感じたりする方のみ。

そして驚愕の恥ずかしいやつ。

「ガチャ。とドアが開く。妹「ドライヤー貸して・・・(驚愕)」姉(私)はきゃりーぱみゅぱみゅを踊っていた・・・」

(- 2013年10月21日 )

これは訳あって、きゃりーぱみゅぱみゅの「ファッションモンスター」を振り付きで練習していた時の事だった。ドライヤーを部屋に持ち込んで髪を乾かした後、そのままドライヤーを放置したままきゃりーぱみゅぱみゅの練習をしていたら、当時同居していた妹がお風呂から上がって、ドライヤーを借りに来た。それはそれは恥ずかしかった。

やらかしシリーズはひとまずこの辺で一度区切り。

このエッセイについて「はじめに」はこちら

7.今日から4日分禁酒します…

やっと小難しい章を過ぎて、今度はとてつもなくアホなツイートを抜粋してみる。

この章は小休止のつもりで読んで頂きたいと思う。

まずはなんかとんでもなく飲み過ぎたらしい一文。

「oh!no!4日酔い」

( 2013年2月17日 )

4日酔いって!一体何をどんだけ飲んだんだ!確かこの日の付近、記憶にある限りでは、友人の務めているバーでパーティーがあって、朝まで飲み明かしていた。そりゃあまぁ…

その結果次の一文。

「今日から4日分禁酒します…」

( 2013年2月17日 )

更に意味不明(笑)4日酔いする程のんだからって4日分の禁酒とは一体どうやるのか。単純に4日お酒を休んだんだと思うけど、自己満足に過ぎない…

そして元はと言えばこのエッセイのきっかけとなったのがこれ。

「酔っ払って爆発投稿をあちこちにしていたみたいです。」

( 2013年4月2日 )

多分ブログかなんかに色々と書き殴ったんだと思う。当然、いつもの如く起きた後は怖くて何を書いたのか、暫く確認しに行けなかった。

またある日は、酢を飲んでいる。

「酢。のむのむ。きく。」

( 2013年8月5日) 

どうやら、アルコールを取り過ぎると、身体が酢酸を求めるらしく、酢の物や冷やし中華など酸っぱい物が食べたくなる。そこで酢をダイレクトに飲んでいる、という事は・・・相当酢酸が欲しかったんだろう。

これはいいとしても、次のは真似をしてはいけないやつ。

「 私インフル注射した日お酒飲んだらすぐ酔っ払って寝ちゃった(笑)」

(- 2013年11月14日 )

いやいや、飲んじゃダメでしょ。インフル注射したら安静にしないと!インフル注射したら激しい運動しちゃだめなんだから!確かに飲酒は激しい運動と違うかもしれないけど。。。程度によっては激しい運動と変わらないぞ!

そんな事だからしょっちゅう寝不足になってしまう。

「エレベーターでも眠りエスカレーターでも眠る〜」

(2013年12月11日 )

立ちながらよう寝れるな。そこまでして睡眠時間を確保しないとならないからもう10分でも早く寝ろ。

実際には、飲んでいてある程度酔っ払うと、いつのまにか寝てしまう。それも、大抵は寝落ちではなくてちゃんと寝支度をして寝ている。それなのに、いつの時点で寝たのかを覚えていないからすごい。

「なんか昨夜つかれてて飲んじゃったらいろんないとろ間違えてる。①twitterにお料理メモしてる②明日の着替えのところにパジャマ置いてる③目覚まし時計かけてない。」

( 2015年4月16日 )

「他。どの時点で寝ちゃったのか不明な感じでPCもデジピも点けっぱなし。月に一回くらいこんな感じで飲み過ぎるので珍しいことではないけどその時なにをしていたのかよくわからないから怖い(・・;)」

(- 2015年4月16日 )

そりゃ怖いよ。起きたらいつの間にか寝ていて、部屋の中に自分の記憶にない行動の跡があるのだから。

特に目覚まし時計かけていないっていうのが恐ろしい。

そんな状態だから、遂にiPhoneにもたしなめられてしまった。
「iPhoneのSiriに試しに『飲み過ぎた』と言ってみたら『飲んだら乗るなですね』と返され、更にタクシーを呼ぶよう指示されたwちなみにもう家です。」

( 2015年8月20日)

正論過ぎて何も言えなかった。。。

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6.深淵を掬う

深淵とは、文字通り深い淵。そこまで沈んではじめて何かを掬い上げる事がある。

ただ、深淵から這い上がってからやっと、「何か掬い上げたものがある」ことに気がつくので、深淵にいる最中はひたすらに痛々しい自分になっているし、真っ暗でしんどい。

そして、這い上がって、まるで深淵に沈んだ事を忘れてしまったかのように明るい自分になれた今でも、ふとしたきっかけがあると深淵の感覚が蘇る。

「眠れないので過去の作品の直しをしてみた☆攻撃的で痛々しかった時代の作品は暫く封印していたけど、それも否定せずそういう自分も居るのだと肯定出来るようになった。陰の方も沢山見たからリアルに気持ち分かるしそういう部分も含めて表現していく必要があるような気がする。折角経験したんだもの。」(7:37 – 2013年10月5日)

「上手く行かないときは明るいものを見ると面白くなくなるのはしょうがないんです。そういうときはむしろ自分の影となっているものをよく見ると倍以上明るいものを生み出せる気がします。」(4:46 – 2013年12月11日 )


「やはり私は光の住人にはなりきれないのだ。ただ、それは別に恥ずべき事ではないと思う。深淵を掬う事が出来るのは、静かな雨の様に優しく紡げるのは…光の住人には成し得ない領域かもしれない。というのが太宰治の人間失格の読書感想文でした。」(5:20 – 2015年11月21日)

深淵が蘇るきっかけとなる出来事がなにかあったのだろう。いや、大した事ではなくて、ほんの些細な事がきっかけになるのだ。

例えば、ライヴの共演者の方がやたらと愛想を振りまくのが上手くて営業が得意そうなのを見て「幼い頃からああやって愛されキャラだったのかなぁ。」と拗ねた気持ちになってしまうとか。
そういうツイートに度々、「光の住人」という言葉が登場している。私がこの言葉を使う時は大抵、誰かと自分の根本的な部分を比べて居る時が多い。

ここで言われている「光の住人」というのは、ツイート内容を読む限り、分かりやすく言うと「クラスの中心にいるような人」だと思う。

幼少期の話を少し書いた通り、だいたい高校くらいまでは、コミュニケーションが全くダメだった。その為教室に居ると浮いてしまい勝ちで、周りからは「変わっている」と認識されていた。

皆んなと同じ様に振る舞えない、溶け込めない。それが私にとっての劣等感だったから、彼らの様な人を「光の住人」と呼んでしまうのだろう。


なので、退廃的なものや思想に物凄く共感していた時期があった。これは廃墟が好きなのとは関係があるのかと言うと、よくわからないが少し関係があるかもしれないと。

今はというと、今でもそんな作品や、そんな作品を作る作家が好みである。

「太宰治だけじゃなくて芥川龍之介とか中原中也とかもなんか似てるとこ多いなーとか思ってそれだけで好きだったりする。」

(5:31 – 2015年11月21日)

「読書感想文の続きだけど、太宰の様に道化師だったのが丁度高校時代だったな。その時から学校の教室とかでライヴ始めてたんだけど。光の住人に対する気おくれをその時だけは感じないで済んだというか。その結果が彩葉永華だ。しかし彼女は既に、光の住人になれない自身を肯定したところに居るから。」

(5:55 – 2015年11月21日)

やはり深淵から掬い上げたものは他でもない「彩葉永華」だったのだ。

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5.不自然な真実

それとはちょっと違うかもしれないけど、良く議論になるのが、子供に読み聞かせる童話のあり方について。

例えば、グリム童話は私達が知っているよりもずっと、原作は残酷で、登場人物、特に悪役がすぐに処刑されたり残酷な方法で殺されたりしている。

「シンデレラ」では継母がシンデレラに処刑されるわ、「3匹の子豚」では、子豚達がオオカミを捕らえた後、煮て食べてしまうというのが原作のストーリーだった。

さすがにそんな残酷な話を子供のうちから読み聞かせるのはよくないだろう、という事で、現代に伝えられているストーリーはかなり優しい内容になっているものがほとんどらしいけど。

確かに、子供のうちから「悪いやつは殺されても仕方がない」というような短絡的な思考が育ってしまうのは良くないと思う。いくら「勧善懲悪」と言ったって別に殺す以外の方法は沢山ある。っていうか、そもそも「殺すこと」そのものが良くない事だというのをむしろ分からせないといけないじゃないか。

だからと言って、それが行き過ぎてクリーンな内容になり過ぎた、とても不自然なものに最近は出会う事が多くなった。

例えば、「たばこを吸うのは良くない事だ」という訳で、喫煙シーンのタバコが他のものに差し替えられている映画の一場面。

『映画の喫煙シーンを規制するからって風車くわえてたりペロペロキャンディーなのはなんか子供だましにしかみえない。私は作品の中の表現として必要ならばそこまでガチガチにしなくていいと思うんだけど。』

3:18 – 2013年8月18日 

私はこの映画を観たわけではないが、「喫煙シーン」に関する問題が取り沙汰されているのを見かけて、本気で爆笑してしまった。なんてあほらしくて皮肉たっぷりなのだ。その記事に載ってた挿し絵を見ると、自転車に乗った初老の男性が、風車をくわえながら通りを走っているというもの。元々彼はタバコのパイプをくわえていたのだが、「自転車の運転をしながらのくわえタバコ」が問題視された結果、パイプを取り上げられ、風車をくわえる羽目になってしまったらしい。

その絵はどう見ても滑稽だった。見た目50、60のおじさんが、何でわざわざ風車なんかくわえて自転車を運転する。まるで大道芸人か頭のイカれた人じゃないか。

なんと言ったってこれじゃ風情がない。パイプの似合うおじさんが風車なんかくわえてたら大人の色気もへったくれもないし本当に不自然極まりなかった。

多分子供から見ても子供騙しに見えるだろうなぁ。確かに自転車を運転しながらのくわえタバコはよくないけど、それとこれとは違う気がするんだけどな。映画の中でのくわえタバコは、それも映画のワンシーンを構成する重要な要素となっているはずなんだ。ここで彼がパイプを加えながら自転車で悠々と通りを走っている事に意味があるはずなんだ。

いくらなんでも実社会への影響に過敏になり過ぎている気がしたし、映画の彩りまで変えてしまうそんな不自然な規制については心から残念に思った。

不自然な真実。そう、不自然。世の中が「クリーン」になって行けば行くほど、真実のもう半分のクリーンじゃない部分はわざわざ見なくても良い様になって行く。

決して世の中から消えたわけではないけれど。

スーパーに行って買い物をすれば、自分の手で鶏を締めたりしなくても唐揚げが作れる様に。

私ですらそう感じるのだから、もう少し上の世代の方と話をすると、昭和時代面白そうだなと憧れが出てくるくらいだ。

『今日行ったお店の人とも話してたけど、今の若い世代は一見昔より健全になったようにみえると。それに対しての私の意見としてはただ綺麗な環境で育ってきてるから、果たしてそれを健全というのかどうかはなんともいえない、と。』

(3:27 – 2013年8月18日 )

昔のニュース番組をネットで見る機会があって色々見てみたら、正直すぎて怖かった。事件の報道番組には不協和音で構成された不気味なBGM。そして生々しい映像に、かなりセンセーショナルで主観の様なものが時々入ったニュースキャスターの喋り。現代の報道ではもはやお目にかかれないようなニュース番組でかなり衝撃を受けた。

ただ、「ありのまま」はダイレクトに伝わって来た。他人事ではいられないくらいの感覚で。もしかすると大袈裟に報道していた事もあったかもしれないけど。

報道もここまで違うと感じるほど「クリーン」になっているのだとしたら、、、

私もきっと不自然な真実に塗れて育って来ている。

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4.光と影について考えていた

なんだか哲学的というか難しいというかそんな話が続くがお許し願いたい。こういう癖のある人なので、頭の中そのまま書き起こすとこんな風なのだ。
気付けばこの章は引用ツイートが1つしかない。きっとその発言に全てが集約されているんだろう。

光と影。もっと言うと光と陰もしくは、光と闇。

自分の作る作品の曲調はメジャーコードのものが多いし、基本的には根が明るい方だ。それでも何故かマイナーコードで作られた曲に惹かれる事が多くて、作詞の方は特に、作風が退廃的だった時期もあった。それは自分の中に抱えて来た闇の部分の表れでもあるかもしれない。

実を言うと、10代の頃は私の半分以上が闇だった。

今でこそ受け入れられているけど、本気で4歳くらいから人生をやり直したいと思ったことが何度もあった。

 幼少期から人見知りでうまく集団に入れず、一人で遊ぶ事が多い子供だった。

なぜ、他の子が抵抗なく集団になって遊んだり出来るのかが不思議で仕方なかったくらいで、幼稚園に入園すると、登園後はほとんど喋らない、という幼稚園時代を過ごした。
当時の私にしてみれば、友達の名前を呼ぶことでさえも、心の準備が必要だった。そんな風だから、会話を成立させるのは至難の技。幸いにも、心優しい上級生や同級生が一緒に遊んでくれていたのだが、私があまりにも口を利かないので、苦肉の策として、ままごとではだいたい、「赤ちゃん」か「ネコ」か「人形」の役に落ち着いていた。ままごとで人気の「お母さん役」は自分には到底、出来る自信がなかった。

連絡帳を見ると、先生は相当困って居た様だった。

そんな風だから、自分の中で幼稚園~中学校くらいまではまさに黒歴史なのだ。

今考えてもまぁ、勉強は出来たし運動もそれなりに出来たし、ピアノも弾けたし、優等生だったからそういう意味での自信はあったかもしれないけど、コミュニケーションに関しては本当にダメで、まともに友達とも遊べないわ、いじめられっ子だわ、恥ずかしくてしょうがない時代だった。

それを浄化して救ってくれたのが、多分音楽制作だったんじゃないかと思う。これがなかったらどうやって黒歴史と向き合っていたんだろう。もしかすると、心理カウンセラーか何かになっていたかもしれない。もしくは、見て見ぬふりをして過ごしていたのかもしれない。

今の道以外を歩んでいたらどうなっていたかはわからないけれど、少なくとも黒歴史を見て見ぬふりしていたら、今の自分はないな。直視すれば苦痛で、なかったことにしたい。自分の中での恥だから。

だけど経験しちゃったんだから一度は直視せざるを得ないんだろうな。一番傷ついたのはその時の自分である以上は。そうしなかったら誰も味方いないじゃないか。それ、辛すぎだろ。

だからどんな事情があったにせよ、出来るだけ差別的な視点は持たないようにしているんだ。一番闘ったのは本人だから。

『自分の中の闇を見つめた人って美しいなと思った。それって自分の全てを全力で愛せてる様に見えたから。』

5:48 – 2011年11月25日 

私は言ってしまえば、ステレオタイプはまず生きてこれなかった。何歳で~をして、っていう「当たり前」が当たり前じゃなかったやつ。そんな風に育つと、「ステレオタイプじゃない私はなんか知らないけど失格じゃないか」って思う瞬間が来る。

でもさ、全員が全員ステレオタイプだったら、違和感ありそう。大体世の中って、ステレオタイプを不自由なくゲットできた人が、幸せだと認識されるためには、その対比として逸脱した人がいるんじゃないかな。じゃなきゃそれ、平々凡々の日常だもんね。

バランスの法則というのがある様に。

もともと人には光の部分と陰の部分があるのだから、陰を良くないからと言って押し殺してあたかも光だけの存在であろうとする事など無理なんだよ。

※このエッセイ集「翌朝、記憶にないツイートで埋まっている」に関する前書きはこちら


「ハングリー」な気持ち②

「ハングリー」な気持ちを感じる場面を数えると、つい人と比べて複雑な気持ちになったりする以外にも、
なんとなく羨ましくなったり、自分にスパルタを課してみたり、あるいは気持ばかりが先走ったり、
ハングリーにも色んな種類がある。
そして実は、それらの気持ちは最終的に全て、「自己実現欲求」のようなものに繋がっている様に思える。

だからこそ「羨ましい」という気持ちが生まれ来るんだろう。
本当は自分がそうなりたい対象で、尚且つ自分がそうなれていないものになれている誰かがいたとしたら、
そりゃ黙っていられないはずなのだ。

『羨ましさは本当は自分がそぉなりたいからなんだ。
そんな自分が嫉妬するブスに終わらない様に出来ることはやってみる!だってやりきったら納得できるもん!』
(7:07 – 2013年9月10日 )

そう。そこでもし、結果がどうなるかはわからないとしても、出来る事がありそうならまずやってみる事。
勿論、叶えば一番いいけれど、良い結果にならなかったとしても多分、なにもしなかったよりは満足すると思う。

一番良くないのは、このツイートにある通り、やろうと思えば出来たであろう事すらせずに、
何もしない為の言い訳に終始して、いつの間にか機会を失い、なりたかった自分になれている、
あるいは形は違えど何らかの形で自己実現している他人に嫉妬し続ける余生を送る事だと思う。
間違いなくブスになる。どんなに美人でもイケメンでも、絶対に醜くなる。そんな風にあと何十年過ごしてたら不幸じゃないか。
ハングリーさは持て余すとだんだん、自分の中で焦げ付いて来る。だから、燻ってないで何かしら行動するのが大事なんだ。

少し話は逸れるが、人間の三大欲求のほかにもう一つ、創作欲求というのを私は持っている。
私は、というか、創作活動をする人はきっと創作欲求含めて四大欲求の人が多いんじゃないかと思う。
これもある意味でハングリー精神の一種だ。

どんな風に出てくるかというと、食欲の様に欠乏感が出てくるのとは違うし、
睡眠欲の様に生命の危機を感じるようなのとも違う。もしかすると性欲の親戚かもしれない。
ちょっと下品な言い方をすると「出したい」。
自分の脳内なり、心の中なんかに、何かを外に向かって表現したい、
つまり「出したい」という欲求が放っておくと天然温泉の様にどんどん湧き出てくるから仕事に集中出来なくなったりして大変だ。

ただ、創作欲求の難しいところは、そのまま出すだけじゃ作品にならないところで、じっくり出てきた欲求と向き合って、形にしていかなければならない。この作業に結構時間と労力を要している間に、また次の創作欲求(アイディアと呼ぶのが良さそう)が出てきて作品化が追いつかず、以下のツイートの様になってしまう。

『私は多分熟れた果実の様に創作欲求をもて余してる。はやくジャムになってしまいたいと想いながら、そのまま委ねるわけにはいかずに結局自分の手をベタベタにしながら煮詰めるしかないのね。』
(7:18 – 2013年9月27日 )

そうだ。もし、寝て起きたら仕上がっていたなんていうものならばどんなに楽なんだろう。勿論、ごくたまにそういう事もあるけど、大抵は無理な話だから。
でもそれくらいアイディアが出てきてくれるのは創作をする者にしてみればこれ程有難い事はない。あとはもう少し処理速度が上がれば言う事なしだ。。。。。

色んな形で時々噴出してくるハングリーな気持ち。
それを醜いから、カッコ悪いからと抑圧したりせずに、「そう感じる時もある」と自分で受け止める。
以前はもしかしたらそれが出来ていなくて、「自分が未熟だから」とか「根性がないから」と、
反省のような生産性のあるものじゃなくて、根拠もなくただ自分を責めるだけだったかもしれない。
そこからは何も生まれる事はなくて、嫌な気持ちが未解決事件の様に気持ち悪く残っただけ。
しかも、自信を無くすというとんでもないおまけまでついていた。

主に酔っ払った時とは言え、ツイート上にそんな書き込みが現れる様になったという事は、
少しずつハングリーな気持ちを受け止める、認める事が出来るようになったのだろう。

『実はここまでがんばりたくなれるのって悔しい思いばかりしてたから100倍返しだ!って気持ちがあるためなんだ。良くできてるよなぁ。』
5:04 – 2013年10月4日

『すごいなぁと思うと同時にちくしょーと思うのは正常反応。負けたくないからこそそぉ思うんだよね!』
5:19 – 2013年10月4日

「アイアムハングリーって堂々と言える人は必ずや強くなる。』
5:21 – 2013年10月4日

よく分かって来ているじゃないか。「正常反応」だと言えるまでになっているなら、大丈夫。きっと「ちくしょー」を糧に100倍成長していけると思いたい。
ちなみに、「100倍返し」というのはこの頃流行っていたドラマ「半沢直樹」の名台詞である。

今の私は随分と負けず嫌いだけど、最初からこうだったわけじゃない。
少し前に書いた様に、悔しさや嫉妬なんかのマイナスな感情に向き合って、
認める事が出来るようになった時から、マイナスの感情を糧にしていけるようになった。
感情は出てくるのは仕方ないのだから、
たとえ出てきた感情が「死にたい」「殺したい」でもそれは「ああ死にたいんだな」「ああ殺したいほどムカついたんだな」でいいんだ。
それを行動に移すのはダメなのであって、感情が出てくるのは「眠い」「お腹減った」「トイレ行きたい」と同じなのだから。

ただし、過ぎたるは何とかという様に、限度を超えると大変だ。変にハイになって来たり、
他人にまで要求が増えて来たら一度冷静になる必要がある。

『逆境がもはや怖くない。どんどん来いとは言わないけど遂にこんな風に思えるところまで来たんだ。』
(5:09 – 2014年2月4日)

まずこっちはやたらとハイになってたかもしれない。
が、あながちそれだけではなくて、多
分何らかのそれまで超えられなかった壁を乗り越えた達成感を覚えた日だったんだろう。これだけ強気になれるという事は。

これはまだいいとして、気をつけないと危険なのは次のようなツイートが出る時だ。

「もう少し頑張りたいけど、自分に厳しくなるあまり他人にまで厳しくなるのは本末転倒なのでもう寝ますかな☆君を愛するために僕自身を愛する。これは間違ってない。」
(6:37 – 2014年2月5日 )

「もぉなんかハングリーすぎてどうしようだ。努力してもしても満足しなくて自分いぢめちゃうぅ」
(6:54 – 2015年11月21日)

一つ目のツイートの一人称がなぜ僕なのかはあまり気にしないで欲しい。
だいたい、私の書く詞は半分くらいが、一人称が僕になっているのだから。

努力しても満足しない。これは手ごたえを感じられていないか、
もしくは理想がより高いところにあって、手ごたえを感じつつももっと努力が必要なのかどちらかの場合が多いと思う。

多分まずいのは、手ごたえを感じられてない場合に、きっと努力の仕方や努力する方向が間違っているんだが、そのままただがむしゃらにやり続けて拗らせて悪化するやつ。

理想が高いので、という場合にも、
いつになったら追いつけるのかと言う果てしなさと共にあるような下手したら絶望感スレスレの焦りで消耗するループにハマると、
疲れてしまうのでやはりまずい。

今もそんなに出来ているとは言えないけど、
こういうツイートが出てきそうな状態になった場合は、
努力してもダメな感じのダメがなんなのかを冷静に見つけるために一度休め。

あと、無闇矢鱈と「誰かみたいに」なろうとしていないかどうか。
悪い事じゃないけど、
自分の良いところをなくして誰かみたくなろうするよりもなりたい自分になる方がずっと早い。

ここまで沢山のハングリーなツイート
拾ってみたが、よくよくツイートを追って行ったらそんな気持ちにしてくれる存在ってものすごく身近に居たのだという事に気づかされる。

『弟ピアノ、妹ギター、私歌ってる。これでセッションだったら最高なんだけど、各人がバラバラに好きな事してるからすごいカオスな状況(笑)
』22:56 – 2015年11月21日

『変な話弟妹の練習のストイックさに焦せらされた。
』23:41 – 2015年11月21日

『人に見せられる演奏のクオリティの追求、その基準を恐ろしく高いところに持っている弟を見た事が今回の帰郷で一番私のためになった気がする。弟に感謝しとくわ。
』5:21 – 2015年11月22日

努力するモチベーションを保つ為には何かしら刺激があると非常に良いが、そういう意味で私はわりと良い環境にあった。。。

3.ハングリーな気持ち①

(※画像は・・・そういう意味ではありません(笑)これまでの内容と打って変わってここから少し難しくなりますが、
特に意見などを求めているわけではないのでお気楽によんでください)

音楽活動をしていると、楽しい事が勿論多いけれど、それ以上に沢山大変な事がある。
お気楽にやってるならまだ良かったんだろうけどそう言うわけじゃないから尚更だ。

ライヴをはじめ、様々な活動を続けて行く中で、嬉しくなる事もあれば、絶望レベルに凹んでしまう事も少なくはない。
あまりネット上に愚痴を書いたりするのは良くないと思ってはいるが、
愚痴ではないにしてもそれに近いツイートをしてしまう事はどうしてもあるのだ。
特に飲みながらツイートしていると抑制が外れてすごい情報量の言葉を垂れ流していたりするから恐ろしい。

『わかるんだよなあなんか。誰も光になりたいって思ってる。
自分よりも眩しい光を見ると、だめなんだなあって自分が無価値に思える。
そうじゃないんだよなぁ。 比べるからいけないんだよなあ。』
(5:14 – 2013年8月9日)

恐らく何かしら、自分よりも優れた存在に出会ったか、コンプレックスを刺激される様な事があった時のツイートだろう。
そうなのだ。
実は光と影というのは相対的に見てどちらがより明るいか、暗いかの対比だったり、
光が射すと必ず何処かしらに陰ができるもので、
表裏一体となっているし、個別に見れば優劣なんて関係ないのだ。

私にとっての「眩しい光」となるものは大抵、
幼少期の嫌な思い出や中学生くらいの時の体験に端を発している気がする。
ここでその詳細を書くと、だいぶ流れを逸脱してしまいそうなので、
詳細にはまた機会があったら書く事にする。

幼少期、だいたい幼稚園くらいから、中学生くらいまでの私は、今とは全然違ったキャラだった。
というか、素質の部分は何も変わっていなくて、
今の様に自由になれず、自分自身でいる事が全くできていなかった。
もともと内向的で幼稚園や学校の様な大人数を基本とする集まりの中に入っていくのが苦手だった事もあって、
幼稚園の頃は登園すると一言も喋らなかったので、だいぶ先生を困らせていたらしい。

家に帰ると打って変わって開放的になるし、
当時から通っていたピアノ教室では試験や発表会でも
「緊張」という言葉が辞書にないくらいの度胸の持ち主だったにも関わらずだ。
(単純に鈍感だったのかもしれないが)

そんな風に大人数の中に上手く入れずに浮いてしまいがちだった事が多くて、
いつの間にか「自分は周りに受け入れてもらえない」と感じるようになっていた。
浮いてしまう自分はなんか劣っているというか、ダメなんだろうなと。

だから、クラスの中心にいる様なキャラを持っている人に出会うと
「うわっなんか眩しい」という具合に拒絶反応が出てしまう事があるんだろうと思う。
いわゆる「人気者キャラ」とか「愛されキャラ」ってやつだ。
音楽活動に置き換えるとやたら愛想良く物販で色々売ってたりが出来る子とか
。それを仮に真似しようとしたところで不自然になるのでどちらかというとMCで笑いを取ったりする方向で今に至る。

本当は「眩しい」と思っているそれって、種類は違っても必ず自分の中に存在しているんだと思う。
誰の中にも必ず。
それをちゃんと引き出せるか、抑え込んで閉じ込めてしまうのか。

自分に対して「彩葉永華」という名前を与えてはじめて、
私自身の中に存在する光はちゃんと引き出せるようになった気がしていて、
その為か変な話、本名の自分よりも彩葉永華の方が本当の自分の様に思えてくる事がよくある。

抑圧的にしていた=周りを気にしたり引っ込み思案で自由になれない自分を解放する存在が彩葉永華なんじゃないかなと今も思う。
だから社会的に必要がある場面以外ではわりと、彩葉永華で通っている場面が多くなっている。

※このエッセイ集「翌朝、記憶にないツイートで埋まっている」に関する前書きはこちら

2.飲酒の変遷②~翌朝、記憶にないツイートで埋まっている~」

このエッセイ集「翌朝、記憶にないツイートで埋まっている」に関する前書きはこちら

そんな私も遂に、大人なお酒の嗜み方を覚えてきたらしい記述が2013年の終わりくらいに見つかっている。

『ソムリエナイフでワインのコルクあけられるようになった(*^^)vいぇいいぇい!』
(5:50 – 2013年12月13日 )

異常に喜んでいやがる。おめでとう。
確かに、ソムリエナイフ1本でワインを開けるのは若干のコツが必要でスマートに開栓出来た日には
ちょっとだけバーテンになったような気分になれた。
これで私もいい加減に大人なお酒の嗜み方を覚えた!と思ったが実際にはそう簡単には変わるもんじゃなかった。

『おおお!ワイン1本空けてしまった!明日はオフだからいいんだけれど。
twitterしながら飲んでると、なんか飲み会に行ってみんなでわいわいしてる気分になっちゃうんだよね~』
(6:30 – 2015年6月6日)

おいおいおい、このハッチャケ加減。。。
ソムリエナイフでのワイン開栓に成功してから一年半経ってもなお、変わらないところは変わらないのだった。

そのハッチャケた勢いで一体何を呟いてるんだか全く。。。

『そうだな。見かけによらず酒豪ってので面白がって可愛がってもらってるうちに(アイドルの方には失礼かもしれませんが)
「酒豪アイドル」みたいになってたんだな(笑)
もし酒豪が体に悪いからセーブしたとしても、またいろんな面白いところ出てくる気がしてる^^2015年は上品にエロくなるかw』
(6:51 – 2015年6月6日)

ダメだダメだ。宅飲みですらこうなんだから、いくら私が飲むと面白いからって大酒を与えてはいけませんって!
でも実際は、言うほど酒豪ではない。
本当の酒豪だったら、多分だけど日本酒4合くらい飲んでも平気じゃないかと思うけど、私はそうはいかない。
意外と適量より少し多いくらいでちょうど良かったりす?。ただ、楽しくなっちゃうし笑い上戸だからやたら面白がられているみたいなのだ。

そして…

『酒豪アイドル=略して酒ドル・・・酒樽!?よし、ビア樽ポルカみたいな酒場チックな曲作ろ♪』
(6:56 – 2015年6月6日)

かくして、後に彩の酒場のテーマとなる「酒場のうた」が誕生するのであるが…少なくとも彩葉永華はアイドルじゃないだろ。
アイドルに失礼だからやめなさい。
そしてやたらと真面目に弁解する始末。

『そういえば、飲み会で楽しくなると、ついいろんな人に自分から絡みに行くんですよ。多分、もとが人見知りなんでその反動かと。だから、いきなりtwitterで絡んだりするかもしれないですけど、仲良くしてもらえたら嬉しいです。』
(7:20 – 2015年6月6日)

綺麗にまとめやがって。実際に、飲みながらTwitterいじってると、タイムラインに出てきた久しぶりに見る人なんかに結構絡んでたりしてるわけだ。

翌日Twitterを確認して見ると、時々相手が反応に戸惑うようなリプライをしてしまっている事があってかなり反省している。

『もし変なリプライしてたり意味不明な絡み方してたらごめんなさいm(__)m
』(13:28 – 2015年4月16)

これに対して、友人達から「何も問題はない」「面白かった」という反応が貰えたのでかなり救われた事が何度もあった。

甘いカクテルやチューハイとワインを経て、私の飲酒はどんどん贅沢なものへとエスカレートして行き、遂にスパークリングワインにハマるという困った事になってしまった。

結婚式やらパーティーなんかで美味しいスパークリングワインを知ってしまったのがいけなかったのだ。その後、自分でスパークリングワインを買ってしまう事が時々起きる。

『少し休憩してスパークる。お酒の中でスパークリングワインが一番好きという超絶コスパ最悪の酒好き。まぁこんなの月一回くらいよ。
』(2:50 – 2015年10月26日)

『スパークる!一本空けやがった私!そして2曲できた!だからプラマイプラスなの!』5:17 – 2015年10月26日

スパークりながら曲を作ってもいるのでまぁ許せるかなと思う。それにしても一本空けるのは飲みすぎだ。プラマイプラスという謎の評価まで出て来ている。スパークリングワイン美味しいもんねぇ、という事で上手く締め括っておこう。

2.飲酒の変遷①~翌朝、記憶にないツイートで埋まっている~

このエッセイ集「翌朝、記憶にないツイートで埋まっている」に関する前書きはこちら

思えば、いつからそんなに飲むようになったのか。
別に20歳になったばっかりの頃からよく飲酒していた訳ではなかった。

むしろ、大学を卒業するまではほぼ飲み会でしか飲まなかったし、
上京して何年かはビールすら苦手で大体チューハイとかカクテルがメインだった。
友人のバーには時々通って居たけど、自宅ではそんなに晩酌する方ではなく、
アイスコーヒーばかり飲んで居たような気がする。

記憶にある限りだと、大体2011年くらいから、自宅でも晩酌するようになったんじゃないかと思う。

その様子が記されたツイートが最初に登場しているのが、2013年9月だった。

『氷結が今日だけ100円とかかなりお買い得なのでケェスで買ってしまおう(^^)』
20:21 – 2013年9月28日

そうだ。
氷結が自宅での晩酌用のお酒として最初の頃に常用し始まったお酒だった。
同じ氷結でも本当に21歳くらいの頃は、ももとかぶどうとか、
比較的甘いやつしか飲めなくて、
グレープフルーツやレモンの氷結はそれから2年くらいかけてやっと好きになれたくらいだった。
今ではすっかりその逆だ。
日本酒やらビールを好きになってしまうと、かえって甘いお酒がダメになったので、
最近ではカクテルをあまり飲んでいない。

とは言えども、甘いお酒ばかり飲んでいたのだって自分で記憶しているよりもずっと最近ではないか。。。

『喘息で禁酒してたら甘いのが欲しくなってラテラテ☆そういや私いつも甘いワインとか缶チューハイとか甘いのばっか飲んでるんだわ(^^)』
(6:40 – 2013年12月2日 )

禁酒中はお茶ではなくてラテを飲んでいたというくらいだからもとい結構甘党だったのだな。
もしこのまま甘い飲み物が好きで居続けたら糖尿病になってしまうところだった。
って言っても日本酒とかビールとか何気に糖分多いからね!