6.深淵を掬う

深淵とは、文字通り深い淵。そこまで沈んではじめて何かを掬い上げる事がある。

ただ、深淵から這い上がってからやっと、「何か掬い上げたものがある」ことに気がつくので、深淵にいる最中はひたすらに痛々しい自分になっているし、真っ暗でしんどい。

そして、這い上がって、まるで深淵に沈んだ事を忘れてしまったかのように明るい自分になれた今でも、ふとしたきっかけがあると深淵の感覚が蘇る。

「眠れないので過去の作品の直しをしてみた☆攻撃的で痛々しかった時代の作品は暫く封印していたけど、それも否定せずそういう自分も居るのだと肯定出来るようになった。陰の方も沢山見たからリアルに気持ち分かるしそういう部分も含めて表現していく必要があるような気がする。折角経験したんだもの。」(7:37 – 2013年10月5日)

「上手く行かないときは明るいものを見ると面白くなくなるのはしょうがないんです。そういうときはむしろ自分の影となっているものをよく見ると倍以上明るいものを生み出せる気がします。」(4:46 – 2013年12月11日 )


「やはり私は光の住人にはなりきれないのだ。ただ、それは別に恥ずべき事ではないと思う。深淵を掬う事が出来るのは、静かな雨の様に優しく紡げるのは…光の住人には成し得ない領域かもしれない。というのが太宰治の人間失格の読書感想文でした。」(5:20 – 2015年11月21日)

深淵が蘇るきっかけとなる出来事がなにかあったのだろう。いや、大した事ではなくて、ほんの些細な事がきっかけになるのだ。

例えば、ライヴの共演者の方がやたらと愛想を振りまくのが上手くて営業が得意そうなのを見て「幼い頃からああやって愛されキャラだったのかなぁ。」と拗ねた気持ちになってしまうとか。
そういうツイートに度々、「光の住人」という言葉が登場している。私がこの言葉を使う時は大抵、誰かと自分の根本的な部分を比べて居る時が多い。

ここで言われている「光の住人」というのは、ツイート内容を読む限り、分かりやすく言うと「クラスの中心にいるような人」だと思う。

幼少期の話を少し書いた通り、だいたい高校くらいまでは、コミュニケーションが全くダメだった。その為教室に居ると浮いてしまい勝ちで、周りからは「変わっている」と認識されていた。

皆んなと同じ様に振る舞えない、溶け込めない。それが私にとっての劣等感だったから、彼らの様な人を「光の住人」と呼んでしまうのだろう。


なので、退廃的なものや思想に物凄く共感していた時期があった。これは廃墟が好きなのとは関係があるのかと言うと、よくわからないが少し関係があるかもしれないと。

今はというと、今でもそんな作品や、そんな作品を作る作家が好みである。

「太宰治だけじゃなくて芥川龍之介とか中原中也とかもなんか似てるとこ多いなーとか思ってそれだけで好きだったりする。」

(5:31 – 2015年11月21日)

「読書感想文の続きだけど、太宰の様に道化師だったのが丁度高校時代だったな。その時から学校の教室とかでライヴ始めてたんだけど。光の住人に対する気おくれをその時だけは感じないで済んだというか。その結果が彩葉永華だ。しかし彼女は既に、光の住人になれない自身を肯定したところに居るから。」

(5:55 – 2015年11月21日)

やはり深淵から掬い上げたものは他でもない「彩葉永華」だったのだ。

※このエッセイ集「翌朝、記憶にないツイートで埋まっている」に関する前書きはこちら

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